ADHDと自己の断絶

 

 

 

無意識に貧乏ゆすりをしていることに気付いて時間を確認した。もう30分以上待っているのにまだ呼ばれない。この病院には予約をどう定義しているのだろうか。受付であとどれくらい待つか聞こうか悩んでいたら名前が呼ばれた。

患者を待たせることに慣れた医者はもちろん謝ることもなく診察を始めた。

「最近はどうですか」

待ち時間が長くてイライラしていますと言いたい気持ちをグッと抑えて、「変わらず生きるのがつらいです」とだけ答えた。毎度変わらない機械的な問答を繰り返して5分もなく診察は終わった。

 

 

毎月イライラしながらも私は病院に通うことをやめられない。病院は私を人間にする薬を出してくれる。薬を飲んでから前よりずっと生きやすくなり、あらゆることが円滑に進むようになった。仕事も人間関係も、20年以上冷戦を続けていた親との関係でさえ。

薬を飲み始めた時はまるで新品のPCに頭を取り替えたように余計なリソースがなくなりフリーズすることもない、頭の中の情報渋滞が解消されて脳内が静かになった、別世界だった。自分がまとめたと思えない綺麗な議事録を見て感動し、上司に褒められ涙が出た。

私はついに自分自身を支配し、敵を乗り越え大きな成長を遂げたのだ。

薬を飲み始めた頃はそう考え、万能感に酔いしれた。

 

ところで、薬を飲んだ私は人間で、薬を飲まない私はなんなんだろうか。

成長とは努力を積み上げて得られる崩れない不可逆の変化だ。薬が切れると私はたぶん人間でない何かに戻ってしまう。それを成長とは呼ばない。

私には自己の連続性がない。薬を飲んでいる人間の私、薬が切れた人間でない私、そこには明瞭な断絶があった。何も積み上がることなく成長もなく、ただ命を削って薬に依存しているちぐはぐな私がいた。


真価は薬にあり、薬なしでは人間でいられない私には一体なんの価値があるのだろうか。

 

 


また名前が呼ばれた。会計だろう。一瞬考えたが次の予約を取り、領収書と処方箋をもらい病院を出た。

転院を繰り返しながら病院に通ってもう4年になる。私はあと何年、何十年、人間でない私が一瞬だけ予約に抗い、人間もどきの私が予約を取り続けるのだろうか。私はいつになったら人間になれるのだろうか。

後日談


生き返って1年経った。

色々あったけど毎年いろんなことが起こるのである意味では変わらない1年だったとも言える。

 

 

"あんなに大好きだったタバコもコーヒーも全く興味がなくなりこれを機に禁煙しようと思った。"


こんなことを書いていたけどコーヒーをがぶがぶ飲み、タバコもばかばか吸い、変わらず大好きなまま、毎日欠かさず摂取している。死ぬ思いをしても人間はそう簡単に変わらないのだ。

 

 

 

発達障害が嫌で自殺未遂して生き返ってきたわけだが、残念ながら発達障害は治ることなく今も私の悩みの種として脳内でバリバリ活動してる。これを書いている今もバスの曲がる動きやエアコンの音、知らない人のネクタイの柄などいらない情報を山ほど拾い、突然お猿の人形がシンバルを叩いたと思いきや、それは脳内会議のスタートで、中身のない内容を繰り広げながら優先するべきタスクをかき消している。

 


要するに概ね変わりなくトンチキに生きているが、1年という月日は小さな変化をもたらしていた。


1年前と変わったところはいい意味で諦めがついたところだ。

 


私はできないことが本当に多い。今まで自分の能力の低さに頭を抱え自責して、いい解決策がわからぬまま、結果として悪い方向へもがき続けることしかできなかった。


ダメ人間なことには変わりはないが、できない原因は私だけが起因ではなく、環境も影響していたり、その日の気圧だったり、世の中は想像以上に複雑で考えても仕方ないことがあまりにも多いことに気付いた。


思考停止ではなく、考えるべきことか悩む必要のないことかを頭がぐるぐる駆け回り猿人形がシンバルを叩く前に切り分けるようになった。

 

 

 

こう考えられるようになったのも環境の変化が大きいと思う。

前述で変わらない1年と言ったがミクロで考えるとあまりにも変化が多く、職場と住居、名字が変わった。まどろっこしい書き方をしているが、転職して引っ越して結婚した。関係ないが来月にまた引っ越しをする。6度目の引越し。

 

 

転職するまでは当たり前にその会社のことしか知らず、労働基準法より会社の就業規則と上司が言うことが何より正しかったし、私は並(カスがもらう懲戒のひとつ上の評価)しかもらえないゴミ人間だと思ってた。


元彼に発達障害だから結婚できないと言われれば、私は発達障害である限り一生結婚できないものだと思っていた。

 

 

私はトンチキなくせに想像力や柔軟性がないため実体験からしか学べないし、実体験が世の全ての定理になっていた。

新しい環境はそんな頑固アスペの私にいろんなことを教えてくれた。毎日株と金利の話をしてくる変な先輩や、頑張った分だけ褒めてくれる上司に出会えた。

一生を一緒に過ごしたい相手が私と一生一緒に過ごしたいと思ってくれてた。

 

 

変化が変化を呼び、FXで20万溶かしたり証券口座に貯金の6割を突っ込んだり、社内SEとして入社したのに金融に興味を持つようになった。あんなに面倒くさがっていた積立NISAも始めて資産運用(運用できてるかは別)をするようになった。

 

結婚をきっかけに夫の人柄の良さから実家が明るくなった。15年くらい会話してなかった父と喋った。

 

夫に大切にしてもらい、自分のことも大切にしてやらんとなと少し他責思考になった。

減薬したのに毎日ぐっすり眠れるようになった。

 

 

毎日が楽しくて、シンバルを叩く猿がいようが毎日脳内会議が開かれようが、生まれて初めて長生きしたいと思った。

ただ、人生はカスで天邪鬼なのでこの1年はやたら体調を崩し、がん検診に引っかかり、いまだに原因不明の体重減少で小学生の頃の体重になったりした。最近はウイルス性胃腸炎にもかかり、今は原因不明の湿疹で上半身大荒れしている。

 


なので次の1年は少しずつ健康を目指して過ごそうと思う。

 


あとこれはずっと変わらないことだけど私と仲良くしてくれる友達には感謝してもしきれない。

長生きして、今までお世話になった人たちに、これからもお世話になりつつ、いっぱい恩返ししていきたい。

2024コッカラッス!!

カフェインとタバコODで自殺未遂して生き返ってきた備忘録

 


2/18 12時ごろ

 

お付き合いしていた彼に

「別れよう。将来を考えられない」

と突然言われる。

「私が発達障害だからってこと?」と聞くと「うん、まあ。」とかなんか言ってた。このとき私は完全にパニックになっていてほぼ記憶はない。

社会に馴染めず苦労してた矢先に、個人としても価値がないと言われた気がして発達障害は治らないし死なないといけねえ!!となったんだと思う。

 


そもそも鬱っけがあり仕事が嫌で嫌で仕方ない私はデスクに2g分のカフェイン剤(死にはしないが確実に中毒症状を起こす量)をお守りとして置いていて、最悪これ飲んで体調不良で退勤しようと目論んでいた。

致死量は5g以上なのでどのくらい飲めば死ぬのかは簡単にわかった。

OD後だんだん手が震えてくるがそれ以外に何の症状もなく暇なのでツイッターしてたがようやく違和感に気付く。ネットで調べて出てくる致死量を当てにしていいのか?と。

慌てた私は(これもネットからの知識だが)タバコは数本食えば死ねるのではと思いキッチンに置いてあったPEACEを4本食う。パニックを起こしてた割に冷静で不味すぎて吐き戻したら死ねないというクソバカ理由からクリームチーズと一緒に食べていた。ついでに絶対に死ぬ強い意志を保つべく抗不安薬等を飲む。

 


それから思った以上に体調が変わらず手はブルッブル震えるも呑気に友達と電話とかしてた。「やっぱりPEACEは平和だから死ねんのかな?(これは大爆笑やで〜プクク)」と今思うと何が面白いのかさっぱりわからないが私にとっては大爆笑必須ネタだったようでツイートまでしていた。友達の反応は覚えてないけど心配で電話かけたら私が変な事言ってて困惑したと思う。まじごめん。電話を切った後は首吊りの試行錯誤をしていた。

 


その頃元彼は突然私がODし始めたからめちゃくちゃ困ってたらしい。何故か私の親にまで電話をかけたらしく、速攻で母から折り返しが来た。「あんたが死んだらあたしも死んで地獄の果てまで追いかけてやるからな!」的なこと言われて母に死んでほしくないし追いかけられるのも嫌だしもうODした後だったのでもう滅茶苦茶困った。

 

足音がしたので「おい!お前ママにチクったろ?!」と怒鳴りながら振り返ると「神奈川県警の者です〜」と黒い服を着た見知らぬおじさんが3人いた。

 


この時のことは1枚の写真のように鮮明に覚えているくらい衝撃だった。だって自分の家に知らないおじさんが3人もいるんだよ。めちゃくちゃ怖かった。暴れられても困るので下手な刺激をしないように努めて笑顔で「あの〜どちら様でしょうか?」と聞くと当たり前だが「神奈川県警の者です〜通報を受けましてね〜」とかなんか返事してくる。もちろん私が暴れないために優しく声をかけているのだが、私も見知らぬ男衆が暴れないように「そうですか〜大変ですね〜」とニコニコしとく。電話先で母に「あんたがODしたから彼が通報したのよ〜」と言われてやっと状況把握。

 

 

 

元彼は別の部屋で取り調べを受けていて、私はやたら体調の心配だったりODした内容物の確認をされていた。ODをして約1時間くらいが経ち段々と気分が悪くなってきた。

とりあえず警察の保護下にということで警察署に連行されることになった。記憶にはないが友達に「死に切れず警察呼ばれて連行されてる。死にて〜〜〜」とLINEしていた。もはや発達障害だからODしたことよりも警察に連行されることが嫌で死にたくなっていた。いずれにせよ死ぬ意志の強さを感じる。

 


パトカーに乗る直前に「お前みてーなクソ野郎が一生不幸でいれるよう呪いながら死んでやるからな!幸せを感じるたび私の死に顔を思い出せ!お前なんか幸せを感じることなく苦しめばいい!!」とかなんだとか断末魔を叫びつつ、「はい、落ち着いてパトカー乗ろうね〜」と言われれば「失礼しました…後ろでいいですか?」と大人しくなった(警察ってなんか怖いよね)。

 


15時前に警察署についてからはなんとか相談室のソファに座らされ常時1,2人に監視されてた。数時間後に何故か私の母が来るらしく、理由を聞いたら、第三者を交えての話し合いをお勧めしますと言われた。実家から2時間くらいかかるだろうから17時には家に帰って話し合いか〜その前に絶対死んでやるからな!と考えてた。だいたい30分で交代制のようで警察官が入れ替わり立ち替わりしていた。暇だったので色んな人と喋った。

 


この頃から薬が効いていたらしくあまり記憶にはないが若い警察官に「死にたくなるくらい好きだったんだね…」「違う!もう好きじゃない!私を否定したから死んでやるんだ!!」「やっぱり復縁したい?」「絶対イヤ!!!」と、好きすぎて振られたショックで自殺未遂した女と思ってる警察vs発達障害のため人生リセマラしたい私で全然話は噛み合わなかった。この時何故だか覚えてるのが「あんな男と別れて正解だよ〜」と言われ、イキイキリと「そうなんですよ!私賢いんです!大学でてますから!」と鬼イキリをした記憶がある。キショすぎる。

 


色々話してた(会話になっていたかはわからないが)けど内心めちゃくちゃ体調悪く、トイレ行くふりをして1度だけ嘔吐した。タバコの束がゴッソリ出てきて「吐いたら死ねない!我慢!」と気合を入れ直したが17時ごろ意識が混濁して立てなくなる。スマホの揺れを感じ画面を見ると友達の名前が見えて、美味しい鍋、楽しかったな〜と思い出すも電話に出れなかった。

「…救急車…ストレッチャー…26歳…」と周りがバタバタし始めてわずかに単語を拾う程度しかわからなかった。

ちょうど救急車に乗せられたタイミングで母と会う。母がいるな〜変なの〜って思ったことを覚えてる。

 


病院に着いてからは記憶がすごい薄くて、とにかく気持ち悪くていっぱい吐いてたことくらいしか覚えてない。ストレッチャーに乗せられて色んな部屋で採血やレントゲン、コロナの検査をした。ストレッチャーの揺れで何度も吐いた。嘔吐物は真っ黒だったしヤニ臭くて自分のゲロにもらいゲロしてた。手術室みたいな部屋で手際良く着替えをさせられて導尿されて、謎の同意書(後から聞いたところによるとやべー状態なので逐一聞かず色んな医療行為をしますよって内容だったらしい)にサインしろと言われる。手の震えでサインなんてできてなかったけど本人が書いたならなんでもいいんだと思う。

 


そのあとドラマで観るみたいな手術室に連れて行かれ、めちゃくちゃでかい声で「心臓に!点滴を直接刺します!危ない状態です!暴れたら死にます!」と言われ手首や腕をグリグリされてた。死チャンスや!と思うが、暴れる元気もなく「痛い〜」と言う以外できなかった。

 

 

 

 


2月18日 夜

ここで記憶がプツリと途切れ、次に目覚めたのは全然知らないやたら綺麗な部屋だった。

看護師さんが忙しそうに走る音や点滴を管理する機械音が耳に入る。

左を向くと手にいっぱい管が付いていて管の先には真っ黄色の点滴と透明な点滴、中身の見えない点滴があった。

この時はとにかく吐き気がひどく身体は震えて動かず寒いのかも暑いのかもわからず、もう本当に何もわからなかった。

 

 

 

突然「本日担当します〇〇です。(日本語はわかるが名前という概念がわからず聞き取れても頭に入らなかった)。今は22時半ですよ。今日は入院ですよ~」と言われたもののなんかよくわからなかった。それより体がつらくてどうにもならなかった。殺してくれって思ったが伝える方法がなかった。

 


時間感覚がわからず手足が震えて痺れて動かず、カフェインODなので寝て起きたら元気になってる…なんてことも起こらず(眠れないので)、どうせ死ぬならはやく殺してくれ〜死にきれないってこんなにつらいなんて知らなかったのごめんなさいごめんなさいって考えてた。いつ終わるかわからない吐き気や手足の痺れや痛み、無間地獄を思い浮かんだ人間はきっとODしたんだろうといまなら思う。

 


カフェインで目が冴えすぎて目を閉じることすらできず色んなことを考えてた。

一番考えたのはODした後悔だったと思う。もう2度とODさせないために体がつらくなる薬を投与されてると本気で思わせるほどつらかった。

次に考えたのは音楽を思い出して気を紛らわす作戦で、何故かSiMのディーダララ〜ダララ〜の部分をリピートすることしかできず一層気が狂いそうになりやめた。

その後は何故かEから始まる英単語を思い出そうとしていた。Extendとexcitingだった。なぜ。それ以上はわからなかったしこの単語の意味もなんとなくわからなかった。

元彼のことを一瞬思い出したが私が死ぬほど苦しんでる中今頃快適な部屋で私と別れられて気分良く眠ってるんだろうと考えたら、元々あった痙攣に加えて歯の食いしばりが止まらなくなり口の中がズタズタになって血の味がした。

 


ゲロで鼻が詰まり必然的に口呼吸しかできず口が乾く。5,6回かけて「のど〜みず〜」と伝えると「水はあげられないのごめんね~」と言われてしまいさらに絶望する。点滴を取り替えるときに少しだけ出る水滴を舐めるために口を開けて待っていたが点滴が口に入ることはなかった。

 

 

 

2月19日 朝


なんかまわりに電気がつき朝になったことに気づく(後に知るが6時に点灯するらしい)。口を少し潤す許可はされたらしく看護師さんが湿らせた脱脂綿的なものを少しだけ噛ませてくれるんだけど生きててあれ以上に美味い水はもう一生飲めねえなと思った。感動するくらい美味しかった。

 


手が痺れてナースコールが押せなかったが看護師さんは柚子のようないい匂いがしたり、身体抑制用の鈴のついた鍵を持ってるので、近くに来るとすぐわかりしょっちゅう水をねだっていた。忙しい中脱脂綿を噛ませてくれた看護師さんには本当に感謝しかないです…

 


死ぬほど美味い水を吸い、「これがポカリだったらどれほど美味なのだろうか…」と考え始めるようになり思考がポジティブ反転する。

また、この頃には周りの壁や機械の製造番号から最新施設に入れられてることがわかり現代医療めちゃくちゃ進んでるし絶対死ぬことはないんだろうなと察する。

退院したら何が食べたいか考えたらみかんゼリーだった。メンタル的にとても元気になってきたタイミングだった。

 


朝になったから何が起こるわけでもなく体調は悪く喉は渇くし素数を数えるようになった。知能が著しく低下しているため2〜31までしかわからなかった。

素数に少し飽きた頃、身体の右左で臭いが違うことに気づく。右側はゲロヤニ臭く、左側は風呂入ってない人間のすえたにおいがした。これが何故か面白く昼くらいまで首を振っていたら(体が上手に動かず首を振るのに体感3分くらいかかる)看護師さんに「動けるくらい元気になったのね〜」と褒められた。

 

 

 

2/19 昼


入院2日目の昼には念願の水を飲む許可を得て、嬉しすぎてイッキして全部吐いた。馬鹿すぎてとても反省しその後は2口までとマイルールを決めて水を飲んだ。

ぼんやりとした頭で現状を少しずつ把握していた。家と同じ区内にある病院であること。看護師さんと医者の先生がいっぱいいること。面会は一切できなくてベッドから勝手に降りちゃいけない(そもそも管がいっぱいで降りられない)こと。ベッドの上でできるのは水を飲むのとナースコールだけってこと。

私以外にも近くに患者がいて、たぶんおじいちゃんで少しボケてること。ボケたおじいちゃんの回診ではいろんな情報を得られた。今日が2月19日で春一番が吹くらしいことや病院名がわかった。おじいちゃんはご飯が食べれるらしく、味噌汁の味が薄いと言っていた。

 


水が飲めるようになり私もお腹が空いてご飯をねだったが、はやくても明日の朝ごはんからと言われ絶望する。暇すぎて看護師さんの会話を聞き過ごしていると自分の状況がわかってくる。

電解質異常を起こしていて血中のカリウム濃度がすごく悪いらしい。この状態だと心臓が勝手に止まったりするらしい。そんな盗み聞きをしながら時間を経つのを待っていた。

 


2日目の夕方くらいにお医者さんから、「数値が良ければはやくて明日退院できますよ。足の感覚はありますか?朝ごはんは明日からなのでお腹空かせて楽しみにしてくださいね〜」と言われ、「あし動きます!!」とアピールしたら導尿外してトイレ行く練習することになった。この頃から敬語が喋れるようになった。

 


夕飯時の忙しさが終わり落ち着いた気配を感じたので、尿意はなかったが散歩がてらトイレのお願いをした。点滴など色んな管や心電図の機械を5分くらいかけて取ってもらい、ベッドに座るとクラクラしてしまい一瞬で立ち上がるのは無理だと悟った。

看護師さんもわかっていたようで車椅子に乗せてもらい、いざトイレへ。

 


入院してからベッド以外の景色を初めて見た。おじいちゃんが何人かいた。きっとここは事故や病気で死にかけたけどもう死なない人間が入院する場所なんだな〜と考える。私のような若い人間はいなかった。実際はどうだかわからない。

 


寝たかったが当たり前に寝ることはできず看護師さんに「みんざいください〜」とねだる。「まだ19時だから消灯のときに持ってくるからね」と言われて大喜びする。この時心拍数が150を超えていて(通常は60〜80)モニターから一生警告音が鳴っていてクソうるさかった。看護師さん曰く深呼吸するといいと言われたのでいろんな呼吸法を試すも効果はなく、このままだと気が狂うとねだったら警告音を下げてくれた。クソうるさいからまあまあうるさいくらいになった。

 

 

 

2/19 夜


消灯され、看護師さんが念願の眠剤を持ってきて飲ませてくれた。が、お察しの通り全く効かなかった。今日も眠れない事実と爆音アラートで一気にネガティブ思考に引き戻された。

発達障害なのに死にきれなかった。これからどうするんだろう。後遺症が残ったらどうしよう。明日も退院できず寝れなかったら。次の職場の内定取り消されたらどうしよう。と考え始めたらもう終わりで心拍数アラートは止まらず大台の160を突破したところで看護師さんが走ってきた。

 

 

 

不安でつらいんです〜と涙涙に訴えると先生の許可を得て抗不安剤をくれた。これがとんでもねーシロモノで飲んで数分でまた素数しか考えられないアホ頭に戻った。「さっきまでなんで無駄なこと考えてたんだろう…はやくノーベル賞取らないと!!」と私は本気だった。

ノーベル賞を取り、賞金はこの病院に寄付するんだ!と必死だった。

もちろんノーベル賞レベルの発見はおろか、2〜31はわかるのに32になると偶数とわかるが素数であるか否か判別できず挫折した。

 

 

 

2/20 朝


天井が点灯し6時になった。念願の朝ごはんだったが忙しい時間帯に看護師さんを引き止めるのは申し訳なく匂いを嗅いだり人の会話からご飯の予測をしていた。焼きそばパンという単語が2度耳に入り、「今日はパン粥かもしれないな〜!ヨーグルトとか食べたいな!」とワクワクするが一向に来ず9時ごろ半ベソで「私の朝ごはんまだありますか…」と聞いた。

「確認しますね〜」と看護師さんは去ってしまい、きっとお医者さんは伝え忘れたんだ!楽しみにしてって言ってたのに!と大泣きに差し掛かったところで看護師さんが朝ごはんを持ってきてくれた。

 


トレイの上に蓋のついた器が4つと牛乳が置かれていた。紙には「白飯(270g)、常菜A」と書かれていて白飯270gの衝撃に全てを持ってかれていた。いや、多すぎじゃないか??私ここ丸々2日間完全絶食だったんやぞと。

手があまり動かないので看護師さんが蓋を開けたりふりかけをかけたりしてくれた。

たらこのふりかけのかかった白飯270g、お麩?の味噌汁、茹でたブロッコリー、目玉焼きとキャベツのソテーだった。普通にクソ多くてビビった。めちゃくちゃ元気な時でも残す可能性ある量が出てきて「これ私の…?(メニュー間違えてませんか?の意)」と聞くも「そうですよ!ごはんよかったね〜!無理ない程度に食べてくださいね!」と別解釈をされてしまう。

案の定数口食べるも吐き気がしてしまい、牛乳だけ全部飲んだらお腹を下した。

 


体調悪く見られて退院伸びたら困ると思い、看護師さんに食べれなかった言い訳をするもよくあることのようで「うんうん、そうだね」とスルーされてしまう。お腹空いてるのに食べれない食事を見てると悲しくなり下げてもらった。

 


温かいタオルで体を拭いてもらい、歯磨きしてもらい、退院の兆しを感じつつ、「これって退院ってことですか!!」と聞くと「精神科の先生とお話して問題なくて、血液検査の結果が良ければ退院だよ。1時間でわかるよ〜」と教えてもらえた。

 


後から聞いた話だとほぼ退院は確定していると前日に連絡があり、私が朝ごはんを食べてる頃には母は病院に向かっていたらしい。

 

 

 

良い結果が出るようにアホ頭なりに面接対策を考えてたが割とすぐ精神科の先生らしき人間たちがきた。記憶が正しければ6人はいて怖かった。軽いアイスブレイクの後「どうですか?まだ死にたいかな」と聞かれ、「自分!生きたいです!病院に感謝はしていますが治療がつらかったためもう二度とこのようなことはせず病院に来ることのない健康な生活を送ります!自業自得です!とても反省してます!」と自責思考をアピールしたら、えらいえらいと褒められ5分程度で面談は終わった。

 

 

 

2/20 昼


これは通過ですわ〜と思ってたら12時でまた給食みたいなお昼ごはんがきた。お昼は、白飯(270g)、ししとうのソテー、煮込み野菜と煮豆、ナスの煮浸し、味噌汁、お茶だった。

オワタと思いお茶を飲んでいたらお医者さんがきて「ごはん不味い?」と聞かれてしまい、「自分の軟弱な胃のせいです!欲を言えばヨーグルトとかがよかったです!」と答え、昼飯は残した。

 


昼食後ついに車椅子に乗らず歩いてトイレまで行けるようになり、トイレから帰ったタイミングで退院許可をいただいた。ちょうど母も病院についたらしく、帰り支度を始めた。(とはいえひとりでは何もできない)

 


看護師さんに着替えさせてもらったり、お医者さんにいろんな管を抜いてもらったりもうはやく帰りたくて帰りたくて仕方がなかった。針は皮膚に直接ワイヤーで縫って固定されていて取るのも痛いしたくさん血が出てた。

 

体に針が残っていないかなどの最終チェックをして、看護師さんに一般病棟?へ案内してもらい、久々に母と再会した。病院はすごく大きくて迷路みたいだった。2,3分歩くことはできても立ってるのは1分でもつらかった。母に「低血糖だからフラフラするんでしょ〜甘いコーヒーあるけど飲む?」と言われカフェインOD後やぞと思いつつもお礼だけした。

 


手の痺れがまだまだひどく書類の手続き等が全くできず全て母にやってもらった。迎えきてくれたこと本当に感謝です。

入院費用は約30万くらいで高額療養制度とやらで自己負担額は大体8万らしい。痛い出費だが24時間体制で面倒見てもらいもはや安いとまで思った。

 


病院に来た時の荷物は預かってもらっていたので引き取り、タクシーを捕まえ、一旦家に帰り必要最低限の荷物(社用PCや常用薬など)を持ち電車で実家に帰った。コンビニで念願のポカリを買ったが味が濃くて美味しくなくて悲しかった。悲しい上に気持ち悪くなってしまいすごく後悔した。

立てないので鈍行があれば鈍行に乗り、JRはグリーン車に乗って帰った。座ってるのもつらかったが電車の床で寝るわけにはいかなかった。

 


母と今後の話し合いをしたり、引き取った荷物の確認をしたり2時間くらいかけて実家に帰った。久々のスマホには友達から連絡が来ていてツイートしたことを思い出して一気に恥ずかしさが込み上げてきた。でもこんな私に心配してくれる人がいて、こんなアホメンヘラの戯言ツイートを信じて連絡くれる人がいて、私はどれだけあたたかい世界で生きていたんだろう、なんで気づけなかったんだろう、本当に本当に生きててよかったなと思った。

 

 

 

発達障害は生まれつきで自分がなりたくてなったわけでもないじゃん。でも発達障害を理由に将来を拒絶されて、私の罪は生でつまりは罰は死なんだ!!はやく死なないと!確実に!とパニックになってしまったんだよね。

 


これ書いてるの退院して3日目でゆっくり休んで考えたけど死ぬほどの理由ではなかった気がする。生まれただけだしな。

これからも死にて〜とはきっとなるけどこれからは死ぬぞ!のラインを超えないように工夫して頑張って生きようと思った。えらい!

 

 

 

2/20 夜


実家についたものの横になってるのもつらく、せっかく退院したのに入院したときと同じように過ごしてた。

体は筋肉痛のように痛く、手足は痺れていて、吐くほどではないが吐き気はあった。吐くのを覚悟でみかんゼリーは食べた。びっくりするくらい美味しかったし全然吐き戻すこともなかった。

 


いつもと同じ眠剤を飲んでも寝れず夜中は暇で暇で今後どうしようかずっと考えてた。友達曰く死線を超えて最強モードらしく、実際その通りでネガティブさが落ち着き、今の家に住み続けるのも新しい賃貸探すのも大変だし新しい職場にも慣れるまで実家に甘えさせていただき通おう、今住んでる家は退去しよう、そのためにはまず何が必要か〜とか具体的にしっかり考えてたら朝になってた。

 

 

 

2/21


朝仕事に行く前の母と少し話し、何もせず過ごした。

実家に猫が10匹くらいいるんだけど、猫にも猫の上下関係があったり小さな社会が形成されていて見てるだけでも楽しかったし可愛かった。

わんこ蕎麦みたいな量の柔らかいお粥やうどんを少しずつ何回か食べた。

相変わらず気持ち悪くて立てなかったりしてたけど午後には歩く分には困らない程度の体力回復していた。左腕が上がらないのが不便なくらいで気合を入れてシャワーを浴びた。ガリガリだった。3日ぶりのシャワーでとても気持ちが良かった。

友達からアイスのLINEギフトをいただき、1週間以内にコンビニ行けるくらい元気になるぞ〜と思い、小さな目標立てつつコツコツ他のことも頑張ろうと思った。

 

 

 

2/22

眠剤が効いて5日ぶりに2時間以上の睡眠どころかバッチリ8時間眠った。眠剤の抜け方が変で今回のODでまだまだ内臓にも負担がかかってるんだなと実感する。

左手で電子レンジのボタンを押したり3秒程度スマホを持ったりできるようになり、他は長時間立ちっぱなしなどではなければ元気に生活できている。

 

あんなに大好きだったタバコもコーヒーも全く興味がなくなりこれを機に禁煙しようと思った。

引越しや職場復帰の目処もたち、第二の人生だと思ってもう少し生きていようと思う。

 

 

 

まとめ

元々文章を書くのが苦手な人間の怪文書をここまで読んでいただきありがとうございます。

 

死のうとした人間なので死にたい気持ちもわかるし否定はしないけどカフェインとタバコのODはやめた方がいい。まじで

 

楽しく生きていたいね、これからはこれからも